本と読書をめぐる冒険


by silverspoonsjp
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博士と狂人

a0003079_21263722.jpg収録語数41万語という膨大な英語辞書、「オックスフォード英語大辞典(OED)」。編集主幹のジェームズ・マレーとそのスタッフは過去に例のないこの大辞典の編纂プロジェクトに追いつめられていました。そこへ、無償の篤志協力者として、「クローソンのW.C.マイナー博士」なる人物が用例のカードを送ってくるようになります。必要なときに必要な用例を送ってくるマイナー博士の仕事ぶりはスタッフを驚嘆させました。

正体を明かさないまま厳密な仕事をするこのすばらしい男は、いったい何者なのか?…クローソンはオックスフォードから40マイルと離れていないし…鉄道で1時間のところにある。なぜマイナーのように非常に優秀で精力的な人物が、これほど近くにいながら一度も姿を見せないのだろうか?…深まる一方だった謎の答は奇妙な形で明らかになった。学者で図書館長でもある人物が1889年に写字室に立ち寄り…クローソンにいる博士のことを口にしたのだ。
 情け深いジェームズ・マレーが彼にたいへん親切にしている、と図書館長の学者は言った。「不幸なわがマイナー博士に、本当によくしてあげていらっしゃいますね」
マレーは息をのんだ。


と、ミステリー仕立てのスパイスも効かせつつ、この本は辞典編纂についてかなり本格的に記述してあり、その点が一番興味深かったところです。
実際にはとても地味な作業にかんする物語なのですが、貧しいながらも独学で言語学を身につけ、編集主幹にまでなったジェームズ・マレーと、裕福な元アメリカ軍軍医・マイナー博士、この二人の人物の奇妙な交流を軸に、人間ドラマも織り込まれた巧みな構成で綴られていて飽きません。

実は『指輪物語』に興味を持つまで(著者のトールキン教授が編纂に関連したということで…)、OEDなどめくってみることもなかったのですが、読んでみると非常に面白く、言葉の意味を調べるという以上の楽しみを与えてくれます。ただ、いま一般に私たちが使う辞書とは、かなり体裁が違います。一番違うのは歴史主義の記述であることで、これは最近の使用頻度重視の記述とは全く違う編集方針です。

なぜこのような編集方針になったのかは、英語辞書の編纂史をひもといてみなければなりません。
本書の説明によれば、18世紀に入ってイギリスの文壇の大御所たちは、国家の標準言語を定め、そのうえで変更が許されるかどうかを英語の権威が決めるべきだと主張しました。しかし、実際に辞典編纂に携わった文学者たちは、それが不可能であり、望ましくもないことを悟っていました。
「恣意的な使用と慣習しだいの言語は、永遠に同じ状態であるわけにはいかず、絶えず変化する。そして、ある時代には上品で洗練されていると思われた言葉が、別の時代には粗野で品位に欠けると見なされることもある…」(ベンジャミン・マーティン)

そして1857年、まったく新しい辞典の編纂が正式に提案されます。ロンドン図書館で、言語協会参事会長のリチャード・シュネヴィクス・トレンチが行った講演にはこうあります。

「辞典とは単に「言語の目録」であり、決して正しい用法を教えるための手引きではない。辞典編纂者には良いか悪いかという基準で単語を選んで収録する権利はない」
「それぞれの単語の誕生から死までを示し、いわば単語の一代記をつくるためには、その単語がいつ生まれたかを知り、出生の記録をつけることが重要である。その原理にもとずいた辞書はあらゆる単語についての用例を文献から引用し、その単語が初めて使われた時を示さなければならない。そして、その用例のあとに、意味の変遷を示す文を載せなければならない。辞典は史的記念物である。…」


しかしそれは、考えるだに膨大な作業でした。ある時代にある単語がどのように使われていたのか示すには、膨大な文献の中からその一語を探す必要があります。そこで、新しい辞書では、何百という無償の篤志協力者を募り、用例を抜き書きしたカードを送ってもらうことで問題を解決しようとしました。冒頭のマイナー博士もこの協力者の一人でした。

どんなことにも苦労はありますが、70年以上の歳月を費やして辞典を作るのは並大抵のことではなく、本書にもところどころ、辞典編集の作業についての、何とも身につまされる記述が登場します。

マレーは説得されて乏しい給与と際限のない労働時間にもかかわらず、もっぱら辞典編纂の仕事に携わることにしていた。…最初の数年間は幸福とはほど遠く、やめようと心に誓ったことが何度もあった。出版局の理事会はお金は出さずに口を出し、仕事のペースは耐え難いほど遅く、はてしない労働時間のために健康はそこなわれた。

「こうしたことをやったことのある者だけが、編集主幹や編集補佐の困惑がどんなものかわかるでしょう。編纂者はaboveのような語の用例を…20、30、40というグループに分類し、それぞれに仮の定義をつけ、それをテーブルか床に広げて全体を見渡せるようにし、チェス盤の上で駒を動かすように何時間もかけてあちこち置きかえ、その後の歴史の記録に不完全なところがないかどうか、ごく些細な点もみのがすまいと奮闘し、一連の意味が語の発展のようすを論理的にあらわすようにしようと懸命に努力しているのです」
(マレーの言語協会の会長就任講演から)

「オックスフォード英語大辞典」は結局、1928年に12巻からなる第1版が発行されます。

本書の章扉には、OEDの中から本文に関係する単語の記述が引用されていて、洒落ています。
ここから一つ、引用させていただきましょう。2章 牛にラテン語を教えた男、の扉の引用は…

Philology [チョーサーにおいてラテン語philologia;おそらく17世紀のフランス語philologie、ラテン語philologia,ギリシア語φιλολονια,φιλογοζ話好きな,口数の多い;討論や議論が好きな;言葉をよく学ぶ;学問や文芸を好む,著作の;f.φιλο- PHILO +λογοζ言葉,話すこと,など ]
1学問や文芸を好むこと;広い意味での文献の研究,それには文法や文芸批評,文芸作品の解釈,文献や記録文書と歴史との関係などの研究が含まれる;文芸や古典にかんする学問;高尚な学問.



博士と狂人
1800円
サイモン・ウィンチェスター著
鈴木主税 訳
早川出版社
ISBN4-15-108220-8
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by silverspoonsjp | 2005-02-18 21:27 | センス・オブ・ワンダーの本 | Trackback | Comments(0)