本と読書をめぐる冒険


by silverspoonsjp
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ゲーデル、エッシャー、バッハ あるいは不思議の環/ダグラス・R・ホフスタッター


ある日突然ぽんと、考えを違う次元に投げ出してくれるという点において、数学はもっともセンス・オブ・ワンダーに満ちている領域といえるかも知れません。その表現方法が難解であるゆえに、「数学の文法」をつかみそこねた私のようなものにとっては、指し示された不思議を存分に味わうわけには到底行かないのが残念ですが。

この本のバッハは、18世紀の大バッハのことで、音楽家。エッシャーは「騙し絵」で知られる20世紀の画家。ゲーデルは20世紀の数学家です。お互い、まるで関係なさそうではありますが、この本では彼らがそれぞれの分野で提示した「不思議の環」について語ります。

直感的にとらえることのできる「不思議の環」はエッシャーによって描かれたものかも知れません。目に心地よいパターンを繰り返しながら、『メタモルフォーゼ』に見られるように、主題からどんどん離れてゆき、また元へ戻るのです。絵は有限であるのに、そこには「無限」が内包されています。

バッハの例でいうと、彼は潜在的な無限が存在するカノン、「諸調によるカノン」を作曲します。プロイセンの宮廷に招かれたバッハは、王に与えられた主題を使ってカノンを作ります。主題からどんどん遠のいていくように聞こえるカノンは、転調を繰り返して高まってゆき、1オクターブ高くなって元の調に自然に戻ってゆくのです。バッハはこの音楽の無限性を意識し、余白に「転調が高まるとともに、王の栄光も高まりゆかんことを」と記しているそうです。

そして、この「不思議の環」を数学的体系の中に発見したのがゲーデルでした。 
 
これらのパラドクスには、共通の犯人がいるように見える。それは自己言及、あるいは「不思議の環」性である。そこでもしすべてのパラドクスを追放するのを目ざすなら、自己言及とそれをひき起こすものを一切追放してしまえばよさそうなものではないか?これは見かけほどやさしいことではない。どこに自己言及が起っているかを見わけることさえ、むずかしいことがあるからである。(中略)

 次の文は誤りである。
 前の文は正しい。
 
全体として、これらの文はもとのエピメニデスのパラドクスと同じ効果をもっている。しかしひとつひとつは、どちらも無害であり、しかも有用でありうる文である。不思議の環という非難はどちらの文にも結びつけられない。ただ両者がたがいに指示しあうそのしかたに結び付けられる。


残念ながら私はこの本を、私のレベルでしか読むことができませんでした。読む人が読めば、もっと異なるものを、この本から引き出すことができるでしょう。そんな期待がもてる本。

野崎昭弘、はやしはじめ、柳瀬尚紀 訳
ISBN-4-8269-0025-2
白揚社 5500円 
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by silverspoonsjp | 2004-07-25 23:18 | センス・オブ・ワンダーの本