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本と読書をめぐる冒険


by silverspoonsjp
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表徴の帝国/ロラン・バルト


 この手の本を、一種のオリエンタリズムだと見る人もいるでしょう。
 それでは百歩譲ってその意見を容れたとしても、それなら、この本の放つ圧倒的なまでの磁力は何なのでしょう。
 たとえば、料理―。

  日本料理の食膳は、このうえなく精妙な一幅の絵に似ている。それは、暗い色あいの基調の上にさまざまな事物(茶碗、蓋物、小皿、箸、こまごまとした食べものの盛りあわせ、灰色の生姜、オレンジいろの野菜の芽、褐色のたまり醤油)が配置された額であり、そこにある器と食べものはひどく小さくて細かいが、しかし幾種類もあって、日本の食膳はピエロ・デラ・フランチェスカの《絵画とは、それぞれの表現に応じて大きくなり小さくなっていく表面と事物の関係の明示にほかならない》という絵画の定義を具現しているおもむきがある。しかし、出されたところでは精妙なこの食膳の秩序は、食事をとるリズムそのものによって壊されたり創られたりする宿命をもっている。はじめ凝固した絵であったものが、やがて仕事台、チェス盤、視覚ではなくて行為や遊びの空間、となる。この場合、むこうの野菜を一つまみ、こちらの御飯を一口、そちらの薬味を少々、手前のおつゆを一すすり、というように、硯を前にして坐り、いかに筆を運ぶかを心得ていながら、しかもためらっている書家みたいに…(中略)…このしぐさのおこなわれる領域、つまり書きこまれる料理、そういうものとして、日本料理は、ある。


 たとえば、俳句―。
 芭蕉の句。
 
 花の咲いた桜の雲。
 鐘。上野のだろうか?
 浅草のだろうか?
  (花の雲 鐘は上野か浅草か)



 たとえば、文楽―。
 
 (主遣いの太夫のむきだしの顔は)客から読まれるようにと、そこにある。だが、読まれるようにと入念に慎重にそこにさらけだされているもの、それは読解可能なものはなにもないということ、なのである。人はここにふたたび、意味の廃絶を見いだす。わたしたちは、ほとんどこれの理解に苦しむ。西洋人にあっては、意味を追いつめるということは、意味をかくすことか、あるいは意味を逆転するか、であって、決して意味を空無化することではないのだから。  

 放っておけば176ページの短い本文を丸ごと引用しかねない勢いなので、この辺で自粛いたします。
  著者にとって日本文化とは、表現体―エリクチュールとは何かを語るための素材である、のはそうなのかも知れませんが、それにしても美しいデッサンです。しかしながら、的確に描写されていても、描かれたものは規定ではないのです。これらの描写を集めてみても、それは日本ではない。日本を語るために書かれた本でもない。西洋とは違うものの見方に目を開ける本ではありますが、それは日本によるまなざしではない。
 まさに無のための言葉、指差す行為とは何かを書いた本なのです。

宗左近訳
ISBN 4‐480‐08307‐3
文庫版  233p ちくま学芸文庫 1996年 (親版1974年)


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・ロラン・バルト『明るい部屋ー写真についての覚書』 みすず書房
 「写真そのものはつねに目に見えない。人が見るのは指向対象(被写体)であって、写真そのものではないのである。
 要するに、指向対象が密着しているのだ。そしてこの特異な密着のために、「写真」そのものに焦点を合わせることがきわめて困難になるのである」。この困難な「写真」という対象の本質を、ロラン・バルトは徐々に捉えていきます。物事を追及するスリルを共に味わえる、極上のミステリー小説のような本。
by silverspoonsjp | 2004-03-28 22:44 | 人文科学の本